旅行・地域

2015年6月18日 (木)

アジサイまつり '15(舞鶴自然文化園)

gawkアジサイはこの時期にはあちこちで見られる。しかしこれだけの種類と数が見られる所は多くはないと思われる。

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特に青系の色がよい。盛りあがるようタワワに咲いて、真ん中のいくつかの花は鞠ではなく、heart01ハート型になっていた。花崗岩質の酸性土壌ために青くなるとのことだが、海の園だから、それがよいかも…

それよりも周辺が花崗岩質の土壌ということが、この青はあるいは多禰寺を産んだ歴史にも繋がるのかも知れない。

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それに比べると、赤や白系はモひとつの感じがある。同じ株であってもpH次第、肥料次第で、影響して桃色、フジ色、青色と変化するのだそう。青がよければ赤はダメということになろうか。

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園内は日本の木ばかりでなく、外来の木が植樹されている。左は赤松か、右はイタリアポプラだそう。

sunこの日は、ツユどきには珍しく、青空で、太平洋高気圧でなく、大陸高気圧に覆われ、日本海から涼しい乾燥した風が吹き込んでいた。丹後の海岸集落でいう「アエの風」かと思われる、もう少し強いと間違いなくアエの風であろうか。気持ちのよい風である。

私が気に入ったのは、この風に吹かれるポプラの葉が葉と葉がこすれ合って発するサラサラサラサの音である。これは日本の木ではあまりないのではなかろうか。

子供の頃、近くにポプラの高い木があった、風に吹かれてサラサラと葉が音を立てていた、ある年、台風で倒れたが、私は50年ぶりにこの音を聴いた。

新名所なのか、こんな写真撮影も行われていた。03

ここのカエデ(日本種ではない)もサラサラと鳴っていた。

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2012年6月29日 (金)

アジサイが一杯(於:舞鶴自然文化園)

coldsweats01 アジサイが美しい、ふだんから草花などに趣味薄い人間で、花を見て背を向けて座ったりはしないけれども、まあまあ、ひと様に花をおすすめするも恥ずかし気もするが、ここはよろしい、と思った。アジサイくらいどこにもあろうけれども、ここもまたよろしい。

tulip舞鶴自然文化園は大浦半島の三浜峠の頂上付近にあって、ツバキ園とか、そのほかいろいろと草木が広大な山の斜面に植えられている。
もともとは関東のtrain西武鉄道が所有していた農園がここにあったのだが、撤退したため、そのあとを市が引き継いだものであるという。大浦半島は観光地として将来性があると踏んだか、都会人向けのリゾートマンションなど日本海の見える側に建てたかったのかも知れない。ユメ破れてこんなものが残った。それともこんなトコは、と見捨てて同じやるなら中国だと中国やアジアにユメを追い進出するのかも。しかし美しくする気があれば、美しくなるものなのだ。そうした気がないからせっかくの自然も死んでしまう。兵庫県ナンバーのバスが着いた。
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↑ここが入口。峠道の道ぶちだからすぐわかる。
↓中はけっこう広くて、斜面もきつい、歩きなれない人はちときつところがあるかも…
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しかし惜しいことにサクラがにゃいわい、サクラを植えろ、市民が来る、今はたいして来ていそうにもないが、舞鶴はサクラだ。

camera 園内のアジサイの様子。アジサイといえばツユの季節のものだが、この日は夏のようなガンガン照りの日だった。
アジサイといってもいろいろあって、ここには60種類5万本が咲いているそう。
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↓動画

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2008年11月23日 (日)

金剛院(舞鶴市)の文化財-2-(塔婆)

金剛院の文化財-(金剛院塔婆)-

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金剛院の三重塔(金剛院塔婆)

この塔は舞鶴を代表する文化財である。こうした塔は丹後ではここにしかない。今は成相寺(宮津市)に五重塔があるが、あれは最近に再建されたものである。

pencil 金剛院の全般については「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照して下さい。

Knkin0054 この塔は重文だが、いつでも見ることができるなじみの文化財で、舞鶴市民なら知らぬ者はなかろうと思われる。近くなら学校の遠足や何やかやで一度くらいは行ったことがあることと思われる。ワリワリはどうもなじみがありすぎてこの塔のよさがわからない面もあるが、こうして見ればまたいい、というのかスゴイものと思える。

Momiji1本来文化財とは全人類の共有財産で、そうあるべきものと思うのだが、大切にしすぎるのか、隠してしまうというのか、見せるだけの施設もないというのか、市民からは見えないものになっているのである。

一度失えばもう取り返しのつかない物で、今のわれわれだけの物ではなく将来の地球市民に伝えねばならぬ宝ではある。そうした将来に対して責任がもてないようなことでも具合が悪いのであるが、そうした配慮に基づく慎重姿勢というよりも、どうも本当の人間文化というものが一般からは隔離・疎外状態になっているのだが、それでいて不条理と感じることもなく当然のことのようになっている、どう言うのかいかにも現代の非人間的社会のマトモとも思えぬ状況がここでも見えてしまうのである。そんな事はないと言うのなら、問おうではないか。舞鶴に伝わる重要文化財だといっても、それらをすべて実際に見たことのある一般の市民が一体何人いるのだろうか。まあ恐らく一人もいないと思われる。何もお寺さんや檀家さんを責めているのではないのだが、「舞鶴の文化財」を私のブログに訪ねてこられる方も多いのである。市民の興味は深いようなのだけれど、私に問われても私は門外漢だし、どこへ行けと言えばいいのだろう。

o(`ω´*)oプンスカプンスカ!! 文化にたずさわる政治や行政を問題に思うのである。その基本姿勢を問うのである。

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Momiji1文化庁の立てた案内には、

重要文化財

金剛院塔婆 木造こけら葺・室町時代

 金剛院は天長六年(八二九)ら平城天皇の皇子高丘親王(出家して真如法親王という)が創建したと伝える真言宗の古刹である。

 この塔は昭和二十五年解体修理され相輪を新補して完全復元されたもので屋根はこけら葺で比例の整った各層の屋根のリズムには軽やかさがある。

 初層の内部には太い四天柱が設けられ来迎壁には室町風の花頭窓がついているのが珍らしい。二、三層は三手先、二重繁棰の和様系の美しい塔婆で、軒の出が深いため、水平への広がりがあって、こころよい景観を呈している。 

文化庁

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もし死ぬと、こんな所へ行きそうな気持ちがしてくる。

『舞鶴の文化財』は、

 古刹金剛院の境内に清楚にたたずむ三重塔である。

 永保2年(1082)高岳親王(真如法親王)の菩提のため白河天皇が建立、久安2年(1146)美福門院によって平忠盛が奉行し本堂の建立とともに修飾したと伝える。

 現在の塔は、室町時代の再建とみられ、初層内部の須弥壇の格狭間の蓮唐草文様や、軒先の構法、斗キョウ積上げ方式等は、室町時代の特徴をよく示している。

 内部には四天柱が設けられ、来迎壁には火燈窓が付され、須弥壇には法親王の木像が安置される。扉が内開きなのは特例である。

 柿葺の屋根は軽やかで、各層とも比率よく整い、三手先の組物に支えられた二重繁垂木の軒の出の深さと水平への広がりに、和様の優美をみることができる。

 悲しくも美しい伝承に彩られるこの塔婆は、周囲の楓とともに、深い落ちつきをもって自然景観にとけこみ、王朝文化の雅びを今にただよわせている。

 相輪は、昭和24年の解体時に復元されたものである。

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2008年11月22日 (土)

金剛院(舞鶴市)の文化財-1-(快慶仏)

金剛院の文化財(快慶仏)

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金剛院には多くの文化財が伝わる。国指定のものでも9件もある。すべてを紹介もできないし、ド素人が勝手に写真を写したりはまったくできないので、すべて市の文献などからのコピーです。

pencil 金剛院そのものは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照のこと。

Kinb01 Momiji1_3  もっとも有名な、金剛院を代表する快慶作の

深沙大将立像

重文。寄木造・彩色。像高84㎝。鎌倉時代の快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 深沙大将は、唐の玄奘三蔵が天竺(インド)への旅の途中に感得したと伝えられる仏教の守護神で、きわめて怪異な姿をしている。

 左手には青蛇をつかみ(欠失)、右の胸横に掌を前にして構え、短い裳の上に獣皮をつけ、両脚を象のロから出している。

 この像には左足ホゾの内側に「巧匠?阿弥陀」の墨書銘があり、後述の執金剛神立像とともに快慶の初期の作であることがわかる。

 腹前の童子面がないほかは『別尊雑記』などの図像と同じように、儀軌に忠実な姿を執るとともに、湧き上がるような頭髪や、筋骨たくましい上躰をがっしりした腰が受ける堂々とした肉取り、激しい身のこなしながら均衡のとれた体勢など、鎌倉時代初期の時代相を反映して写実的な迫力に満ち、快慶の無位時代の造像姿勢が生き生きと表れている。

 快慶の忿怒形像の代表的名品であり、わが国の仏像彫刻の中でも稀にみる出色の異形像といえよう。

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Momiji1_4これも快慶作

執金剛神立像。

重文。寄木造・彩色。像高86㎝。鎌倉時代。快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 執金剛神は、金剛杵を持った護法神であるが、わが国で独尊で造られるときは、甲冑をつけた武装形の執金剛神、一対で造られるときは下半身に裳をつけた金剛力士の姿に表される。

 独尊としての作例は全国的にも少なく、東大寺三月堂にある奈良時代の塑像執金剛神を知るのみであり、金剛院像はその模像である。

 左足ほぞの内側には「巧匠?阿弥陀仏」の墨書銘があり、仏師快慶の作であることがわかり、前述の深沙大将像とともに、元来一具のものと考えられる。

 両像には、無位時代の快慶が天平古像や、密教図像を学んだあとがうかがえ、この像も東大寺の鎌倉復興期の大勧進であった俊乗房重源と深いつながりのあった快慶による復古的な制作であることがうかがえる。

 重源の数々の作善を記録した『南無阿弥陀仏作善集』の高野新別所の条には、この像と深沙大将の組合せが記されており、高野山と金剛院が美福門院の御願所であった関係から、両像が高野山か金剛院に移された可能性も強く、興味深い。

Kaikeib02 ←松尾寺の快慶仏「阿弥陀如来坐像」像高89.3㎝(重文)

Momiji1_4快慶自らが「巧匠アン阿弥陀仏」などと墨書した仏像は全国に20躰ばかりした伝わらないそうで、そのうちの4躰がこの金剛院に伝わっていた。2躯は今も金剛院に伝わる上のものであるが、もう1躯は近くの青葉山松尾寺の重文・阿弥陀如来坐像(アン阿の墨書銘がある)と、宮津市由良の如意寺の地蔵菩薩像(身替わり地蔵)(巧匠アン阿弥陀仏の墨書)である。(舞鶴から言えばこうなのであるが、宮津からはもともと如意寺のものであったが、金剛院に預けてあったのを取り戻したという)

舞鶴市民新聞98.1.1は、

…繊細な仏像を残した快慶にあって、こうした忿怒形像は珍しく、また仏教彫刻史をみても深沙大将立像は少なく異色の作品であることから、近年文化財関係者の間で評価が高まってきた。平成三年に英国ロンドンの大英博物館で開催された「鎌倉時代の仏像展」、昨年は米国ニューヨークでの「仏像彫刻展」に出品され、この時にはポスター写真にも使われた。

としていて、超個性的で、何とも現代的でもあり、当然にも海外でも人気が高いものである。

Kaikeib01 ←如意寺の快慶仏「地蔵菩薩座像」像高53.2㎝(府文化財)(安寿と厨子王伝説の金焼地蔵・身代地蔵。実際に焼け跡があるという)

Momiji1_4『宮津市史』は、高野山から持ってきたかもなどと根拠あいまいな話はしないのであるが、引かせてもらうと、

一 快慶作地蔵菩薩坐像と安阿弥様の流行

丹後の快慶作仏像

 宮津市の鎌倉時代の美術は、由良の如意寺の快慶作地蔵菩薩坐像に始まる。快慶は鎌倉時代の彫刻界に新風を巻き起こした慶派所属の仏師で、康慶を師とし、運慶とは兄弟弟子となる。治承四年(一一八○)平重衡のために焼討された東大寺の勧進聖となった俊乗房重源(一一二一~一二○六)の弟子となり、安阿弥陀仏の号を師からもらったので、快慶の制作した仏像の作風を安阿弥様といい、その作風は後世の仏像制作にも、大きな影響を及ぼした。

 丹後にはこれまで三躯の快慶の作品が確認されていた。舞鶴市金剛院の執金剛神立像と深沙大将立像、同市松尾寺の阿弥陀如来坐像である。執金剛神像と深沙大将像は、慶派仏師が目指していた天平彫刻への復古という方針のもとに制作された。治承四年の戦火で南都の東大寺と興福寺の天平時代の仏像が、ほとんど焼失してしまったから、南都を根拠地にして、常日頃天平彫刻に親しんできた慶派払師は、まず天平復古を第一目標とした。第二目標としたのは、新しく成立した武家政権にふさわしい写実的で力強い作風で、平安時代後期の仏像に流行した繊細で優美な定朝様に代わる新様式であった。これを実現するため、これまで彫眼であった仏像の目に、水晶製の玉眼が嵌入され、また、宋様式の生々しい表現法が取り入れられた。

 舞鶴市松尾寺の阿弥陀像は第二目標を強調して制作された仏像である。同金剛院の両像とともに、快慶の無位時代の作品で、いずれも「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書銘があり、初期の溌刺たる力強さを持つ快慶の作風をあらわしている。

快慶作仏像の新発見

 如意寺の地蔵菩薩坐像は、火災にあったことがあり、その修理によって、表面が分厚い彩色で覆われてしまったため、膝裏内刳部に「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書があることが、以前から確認されていたにもかかわらず、快慶の作品と決定できずに過ごしてきた。昭和六十二年(一九八七)、この像の解体修理が実施され、三道内部と左目の玉眼押さえからも、新たな快慶の墨書が発見された。像容もこの修理によって当初の姿が明らかになり、快慶初期の力強くも生々しい姿があらわれることになった。

 この地蔵像に残る焼痕は、山淑大夫に捕らわれた安寿と厨子王の姉弟が、脱出しようとして見つかり、太夫から焼け火箸を当てられたのを、この地蔵が代って受けたのだという伝説を生んだ。寺伝では、何時の頃からか如意寺の本山である舞鶴市の金剛院に預けてあったのを、明治時代に取り戻したと伝えている。

 宮津市と舞鶴市に残る四躯の快慶造立像は、いずれも快慶の初期の無位時代の作品で、金剛院像は天平復古、如意寺像と松尾寺像は写実と力強さ、宋風の生々しさを顕著にあらわしている。これらの仏像を、快慶が現地に来て作ったのか、都で作ってこちらに持ってきたのか、という問題は、いずれも大きな仏像ではなく、内刳も発達していて軽いので、後者の方が可能性があるように思われる。玉眼入りの一木割矧像を作る場合、設備の整った都の仏所で作る方が、仏師にとっては都合がよかったであろう。

 制作地問題 ところが、同じ丹波でも、兵庫県氷上郡山南町の石嵓寺の金剛力士像二躯になると、両像ともに仁治三年(一二四二)に慶派の肥後別当定慶が造立した作品だが、像高が阿形で三六八・一センチ、吽形で三七一・二センチもある。これほど大きくなると、大仏師が小仏師を大勢引き連れて、現地に行かなければ、制作はできない。もっとも、寄木造だから、まず都でいったん完成し、彩色は未完のままで解体して、丹波へ運搬して組み立てたと考えた方がよいかもしれない。こうして現地に運んでも、組み立てにあたっての諸注意や修正、表面の彩色などは、大仏師が指揮をとってやらなければならない。このような大きな仏像ではなくても、寄木造像の場合は、解体して運び、現地で組み立てて彩色し、完成した方が、搬送中の損傷も少なく、安全だったであろう。解体運搬の場合は、当然、仏師が現地に赴いて、組立・彩色の仕上げをおこなったものと思われる。…

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2008年11月18日 (火)

金剛院(舞鶴市)キャンドル・イルミネーション '08秋

moon1 紅葉の名所として知られる金剛院(舞鶴市鹿原・鹿原山慈恩寺)

ライトアップとキャンドル・イルミネーションの様子。

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pencil金剛院については詳しくは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照して下さい。

moon1 2008年は11月15日(土)と16日(日)に行われた。三重塔(重文・金剛院塔婆・室町時代)のライト・アップが行われる。

moon1 昼間の太陽光線で見るのとはまた違った趣がある。昼の顔と夜の顔は違う。幻想的と呼ぶのか悪趣味的と呼ぶのか、自然に反するような話で少しなら許されるというものかも知れない。Kinl01

moon1 どう見ても現代人の感覚では作れそうにもない手の込んだ建物であるが、周囲の自然景観とよく調和する。この世の物とも思えないすごさがある。

moon1 三重塔の前の公園広場(鹿原公園)に、綺麗にキャンドルが並べられ、灯りが点けられていく。雨が降っても風が吹いても消えないように出来ている。

moon1 キャンドルは創建の年(天長3年・西暦829年)に合わせて829個だそうである。

moon1 ライトアップに使われる投光器は消防署の物のようで、自家発電機を廻して電気を起こしているが、幾つか点灯していないものもある。

Kinl06 moon1 このあたりがベストアングルなのかカメラが並ぶ。もうびっしりといる。

moon1 月が出ないかと空をみるが、曇り空のうえ、絵くらいの月齢の月だから、出たとしてももっと遅くなるだろう。

Kinl02 moon1 私も皆のマネして写してみた。この位置から写せばこんなものになる。

moon1 (/ω\)ハズカシーィ 何か決まり切ったような構図で、超歿個性的、快慶に怒られそうで、私としては面白くもなく、たいした感動を覚えないないのであるが、とうとう写してしまったりしたのである。

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2008年5月26日 (月)

朝妻祭(京都府与謝郡伊根町新井崎神社、他)

徐福を祀る新井崎神社(京都府与謝郡伊根町新井)などでは「朝妻祭」が催された。08年は4月20日(日曜日)であった。

これはその動画の記録(坂根正喜氏撮影)。(部分)

新井崎神社だけでなく、この周辺の各地が催される。

one新井の西側、蝙蝠山の麓の三柱神社のナワテ振り。

two同社での大刀振り。

three同社での花踊り。

four新井崎神社での花踊り。

five新井崎港恵比須神社での大刀振り奉納。

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2007年7月25日 (水)

丹後の空から。ヘリ空撮同乗記-その2-

◎先の「-その1-」の続きです。

Hl50otkj ↑0050。

これは鬼嶽稲荷社。

Hl51yst ↑0051。加悦谷の一番奥の与謝峠。与謝大橋。

少し水蒸気があって、曇ったようにコントラストが悪い。

Hl512 ↑00512。与謝峠から加悦谷をのぞむ。

パイロット氏がチョコットおいていたが、私ははじめは携帯かと思っていたが、携帯であるわけがない。

これはGPSだ。ガーミン社製の携帯GPSと思われる。

私もこれを買おうか。カメラに付けると、1コマ毎に緯度・経度・標高を記録してくれるし、パソコンに繋げば、この日の飛行経路を上手に作図してくれる。はず、のすぐれもの。

Hl52 ↑0052。これはどこの谷間か。

千年椿のあるあたりの上空と思われる。

滝という地区の上空。

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↑0053。右下に白く光って見えるのは、椿資料館。千年椿はここから山道を入っていく。

Hl54syt ↑0054。施薬寺ではなかろうか。

蕪村の寺。七仏薬師の寺。

Hl55ky_1 ↑0055。加悦町の中心。加悦小学校など。

Hl56iwy ↑0056。野田川町岩屋。岩屋峠をのぞむ。

Hl57ytz ↑0057。

水戸谷の上空。

Hl58itk ↑0058。大内峠の上空。一字観の展望台がある。

Hl582amhd ↑0582。天橋立。成相寺上空。

Hl59hok ↑0059。宮津市日置。

Hl60kdw 0060。栗田湾。

Hl61myz ↑0061。宮津市街。

Hl62ahd ↑0062。言うまでもないが、天橋立。

Hl63ahd ↑0063。こんな神秘な姿をしている。大事にしないと。

Hl64nkk ↑0064。ニューカレドニアからニッケル鉱を積んで宮津湾に入る。

Hl65kud ↑0065。栗田。海洋高校。

Hl66kud ↑0066。

栗田半島。いかに自然が美しいものかがわかる。それに比べると人間がゼニ儲けしようと作ったものは…

Hl67yrr ↑0067。由良川河口。

Hl68ony ↑0068。浦入の石炭火電と大丹生集落。

Hl69tts ↑0069。千歳。

Hl70krk ↑0070。枯木浦の入口。

Hl71tsm ↑0071。戸島上空から長浜方面。

Hl72wdf ↑0072。建設が進む和田コンテナ埠頭。

Hl73nmz_2 ↑0073。西舞鶴の市街地。

Hl74okm ↑0074。ヘリ基地は大君集落の材木置き場。

さて楽しめましたか。何を感じて、我らは何をなすべきか、少し我らの人間世界を反省でもしていただける材料となれればと祈る次第。

坂根氏にはまだまだ飛んでもらわないと。

私は彼のアルバム作りを手伝わないと。

自然が壊れる、人間が壊れる。

◎ここに掲載の風景写真は自由に使ってもらって結構です。webなどで利用されるのなら、どこかに『デジタル丹後』より、としてリンクを張っておいてくだされば十分です。

もしこれ以上の高画質のプリントが欲しい方は実費有料でお分けします。メールください。

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2007年7月21日 (土)

丹後の空から。ヘリ空撮同乗記-その1-

-丹後の空-

 青空をみあげて、鳥のように、飛べるといいなー、死ぬまでには一度は飛んでみたいなー、と。

これは誰しもの子供の頃からの夢ですが、そんな夢が不思議なことに、どこからかかなう。

 もう何十年も昔にハバロフスクから飛んで帰ったことがあるが、あの時もヒョンナことであったが、あれは1万メートルばかりの高空で、雲の上、高すぎて、天気がよくても地上のものはあまり何も見えない。

 今回は、空撮写真家・坂根正喜氏のヘリに同乗されてもらえた。彼はすでにもう8回も丹後の空を飛んでいる。(詳細はHP『丹後の地名』を)。

今回が9回目という、丹後空撮ならこの人おいてはない。7月19日の梅雨のあけきらぬ、しかし久々に少し晴れ間の出る天候になった。

電話が鳴る。「今日は飛べる。12時に来い」というのであった。さっそくデジカメ詰め込み、すっ飛んで行った。しまったなー、もう少しメモリーがあった方がいいかなーと考えながら。

このブログは、『丹後の地名』の「アルバム5」の続きですので、先頭部分というか詳しくは、そちらを見て下さい。

たまには空からながめて見るのも精神的にもかなりいいようで、坂根氏は「もうやみつきや」と、とうとう薬が効きすぎてビョーキになってしまったくらいである。

◎このブログに掲載の下の写真はいずれもクリックしてもらいますと、2倍くらいに大きくなります。

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↓0002。ヘリのコクピットはこんな様子。メカのかたまり。何かぜんぜんわからぬが…。意外と狭いような、広いような。私は初心者とのことで、ここに乗せてもらった。

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↑0003。コクピットから見ると、外はこんな様子に見える。下は西舞鶴湾(京都府舞鶴市。古くは笛ケ浦と呼ばれた)。

   

1時間ばかりであったが、十分に堪能。800枚も空撮をした。坂根氏と合わせると2000枚くらいはあると思われる。

◎その下界の様子を続けていこう。

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↑0004。ここは下佐波賀(京都府舞鶴市佐波賀)の集落。終戦直後の浮島丸事件で有名な所。左の端っこのほうに「浮島丸殉難の碑」が見える。(舞鶴の人でも知らない浮島丸事件。参照)→ 「朝来と志楽」

→ 「丹後の伝説17:浮島丸事件」

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0005。 河辺の谷(京都府舞鶴市河辺中くらいより奥側)

もう詳しいコメントはつけません。

ただ子供のように無心に見ていれば、コミュニケーションできるはず。そこからを何かを感じ取っていただきたい。

Hl12ask ↑0006。朝来中(京都府舞鶴市朝来中)のあたり。舞鶴工専の校舎も見える。海軍第三火薬廠というのがこのあたり一帯にあった。

                                   ↓0007。Hl13srk1 志楽の小倉(京都府舞鶴市小倉)

Hl14srk2 ↑0008。志楽谷の奥側、青葉山の麓にかけて。(舞鶴市志楽)

Hl15sobot1_1 ↑0009。祖母谷の奥側(京都府舞鶴市多門院)

Hi16yhr1 ↑0010。与保呂小学校の真上へやってきた。もう子供達は帰ったようで誰もいない。(舞鶴市立与保呂小学校)

Hl17yhr2 ↑0011。与保呂谷(京都府舞鶴市木ノ下より奥側)

茅屋の近くです。詳しくは、→「与保呂の里

Hl18tm1 ↑0012。これは私の茅屋も見える。新しい住宅が建ち並んでいる。(舞鶴市常新町、京月町、亀岩町)

わざわざここを飛んでくれた。本当に親切だね。感謝、感謝。

(この写真は坂根正喜氏からいただいたもの。感謝、感謝)

Hl19mry ↑0013。丸山球場や丸山公園(京都府舞鶴市丸山

Hl20ykn ↑0014。東舞鶴市街地の南側、行永のあたり。倉梯第二小学校が見える。

Hl21hmz ↑0015。南側より東舞鶴市街地を見る。

◎これより菅坂峠を越えて、上林谷(綾部市上林)へ入る。

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↑0016。ここはたぶん、たぶんであるが、市志の谷でなかろうか。最近話題の「限界集落」が点在する地である。

Hl26okn ↑0017。オクカンです。どこのあたりかと問われると自信がなくなるが、睦寄町あたりではなかろうか。

Hl27kmb ↑0018。上林のどのあたりであろうか。鮎がとれると聞く。

忠町のあたり。

Hl28kmb2 ↑0019。京都縦貫道のトンネル工事

Hl29umz ↑0020。JR梅迫駅から北へ、東八田方面を見る。

◎続きはいずれまた。

◎続きです。

Hl30ant_1 0021。安国寺上空から南向き。

↓0022.渕垣のあたり。何工業団地と呼ぶのか知らないのだが、新しい工場が造成されている。

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Hl32 0023.星原あたり

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↑0024。ナビつきのカメラがほしくなる。緯度・経度・高度の出るヤツがほしい。なければ迷子だ。どこだか私はもうわからなくなった。

ここは物部町から南向き、だそうです。このブログを見て、坂根氏がFAXをくれました。感謝、感謝、感謝のし通し。

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↑0025。これは鍜冶町・大畑町の上空。東向き。大きいのは老人福祉施設だそうです。

Hl35 ↑0026.ため息が。上の位置から北向き。

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↑0027。このあたりの田は広い。5反くらいはあるらしい。

刈り取った跡のように黄色く見える田は麦が植えてあったそう。

物部の「南天」の上空。パイロット側の窓の下段の先側の窓ごしにちょうど「南天」が見える。南向き。赤い屋根は物部幼稚園だそうです。

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↑0027。ここならばわかる。物部

(京都府綾部市物部町)。

先ほどから書いているが、ここに「南天」という喫茶店(レストランも)があって、そこではちょうど坂根氏の写真展が開かれている。「花と緑」の綾部を見て下さい。8月4日までです。

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↑0028。物部から西坂を向いて

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↑0029。志賀里の西方町の谷

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↑0030。これは何とも特徴のある山で。

何という名か知らないが、物部と志賀里のあいだくらいにある山。ヘタクソが写しても芸術写真になりそうな山である。

志賀小学校とその向かいや横手は何北農協、だそうです。

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↑0031。大江町公庄あたりから南向き。由良川。福知山市と大江町の境あたり。

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↑0032。はるばると来たものだ。ここは大江町北原(口北原)。ピラミッドは内宮さんの日浦山。

坂根氏は棚田が好きで、ここの棚田を写したかったそうだ。

空からでもないとこれないような所である。いい道はあるのだが。この村はまっすぐ平という所がない。棚田はかなり荒れていた。棚田のある村は鉄の村と私はにらんでおります。

Hl44

↑0033。さあ大江山を越えるぞ。

◎続き、いずれまたの日に。

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