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2008年11月22日 (土)

金剛院(舞鶴市)の文化財-1-(快慶仏)

金剛院の文化財(快慶仏)

Momiji1_2

金剛院には多くの文化財が伝わる。国指定のものでも9件もある。すべてを紹介もできないし、ド素人が勝手に写真を写したりはまったくできないので、すべて市の文献などからのコピーです。

pencil 金剛院そのものは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照のこと。

Kinb01 Momiji1_3  もっとも有名な、金剛院を代表する快慶作の

深沙大将立像

重文。寄木造・彩色。像高84㎝。鎌倉時代の快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 深沙大将は、唐の玄奘三蔵が天竺(インド)への旅の途中に感得したと伝えられる仏教の守護神で、きわめて怪異な姿をしている。

 左手には青蛇をつかみ(欠失)、右の胸横に掌を前にして構え、短い裳の上に獣皮をつけ、両脚を象のロから出している。

 この像には左足ホゾの内側に「巧匠?阿弥陀」の墨書銘があり、後述の執金剛神立像とともに快慶の初期の作であることがわかる。

 腹前の童子面がないほかは『別尊雑記』などの図像と同じように、儀軌に忠実な姿を執るとともに、湧き上がるような頭髪や、筋骨たくましい上躰をがっしりした腰が受ける堂々とした肉取り、激しい身のこなしながら均衡のとれた体勢など、鎌倉時代初期の時代相を反映して写実的な迫力に満ち、快慶の無位時代の造像姿勢が生き生きと表れている。

 快慶の忿怒形像の代表的名品であり、わが国の仏像彫刻の中でも稀にみる出色の異形像といえよう。

Kinb02

Momiji1_4これも快慶作

執金剛神立像。

重文。寄木造・彩色。像高86㎝。鎌倉時代。快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 執金剛神は、金剛杵を持った護法神であるが、わが国で独尊で造られるときは、甲冑をつけた武装形の執金剛神、一対で造られるときは下半身に裳をつけた金剛力士の姿に表される。

 独尊としての作例は全国的にも少なく、東大寺三月堂にある奈良時代の塑像執金剛神を知るのみであり、金剛院像はその模像である。

 左足ほぞの内側には「巧匠?阿弥陀仏」の墨書銘があり、仏師快慶の作であることがわかり、前述の深沙大将像とともに、元来一具のものと考えられる。

 両像には、無位時代の快慶が天平古像や、密教図像を学んだあとがうかがえ、この像も東大寺の鎌倉復興期の大勧進であった俊乗房重源と深いつながりのあった快慶による復古的な制作であることがうかがえる。

 重源の数々の作善を記録した『南無阿弥陀仏作善集』の高野新別所の条には、この像と深沙大将の組合せが記されており、高野山と金剛院が美福門院の御願所であった関係から、両像が高野山か金剛院に移された可能性も強く、興味深い。

Kaikeib02 ←松尾寺の快慶仏「阿弥陀如来坐像」像高89.3㎝(重文)

Momiji1_4快慶自らが「巧匠アン阿弥陀仏」などと墨書した仏像は全国に20躰ばかりした伝わらないそうで、そのうちの4躰がこの金剛院に伝わっていた。2躯は今も金剛院に伝わる上のものであるが、もう1躯は近くの青葉山松尾寺の重文・阿弥陀如来坐像(アン阿の墨書銘がある)と、宮津市由良の如意寺の地蔵菩薩像(身替わり地蔵)(巧匠アン阿弥陀仏の墨書)である。(舞鶴から言えばこうなのであるが、宮津からはもともと如意寺のものであったが、金剛院に預けてあったのを取り戻したという)

舞鶴市民新聞98.1.1は、

…繊細な仏像を残した快慶にあって、こうした忿怒形像は珍しく、また仏教彫刻史をみても深沙大将立像は少なく異色の作品であることから、近年文化財関係者の間で評価が高まってきた。平成三年に英国ロンドンの大英博物館で開催された「鎌倉時代の仏像展」、昨年は米国ニューヨークでの「仏像彫刻展」に出品され、この時にはポスター写真にも使われた。

としていて、超個性的で、何とも現代的でもあり、当然にも海外でも人気が高いものである。

Kaikeib01 ←如意寺の快慶仏「地蔵菩薩座像」像高53.2㎝(府文化財)(安寿と厨子王伝説の金焼地蔵・身代地蔵。実際に焼け跡があるという)

Momiji1_4『宮津市史』は、高野山から持ってきたかもなどと根拠あいまいな話はしないのであるが、引かせてもらうと、

一 快慶作地蔵菩薩坐像と安阿弥様の流行

丹後の快慶作仏像

 宮津市の鎌倉時代の美術は、由良の如意寺の快慶作地蔵菩薩坐像に始まる。快慶は鎌倉時代の彫刻界に新風を巻き起こした慶派所属の仏師で、康慶を師とし、運慶とは兄弟弟子となる。治承四年(一一八○)平重衡のために焼討された東大寺の勧進聖となった俊乗房重源(一一二一~一二○六)の弟子となり、安阿弥陀仏の号を師からもらったので、快慶の制作した仏像の作風を安阿弥様といい、その作風は後世の仏像制作にも、大きな影響を及ぼした。

 丹後にはこれまで三躯の快慶の作品が確認されていた。舞鶴市金剛院の執金剛神立像と深沙大将立像、同市松尾寺の阿弥陀如来坐像である。執金剛神像と深沙大将像は、慶派仏師が目指していた天平彫刻への復古という方針のもとに制作された。治承四年の戦火で南都の東大寺と興福寺の天平時代の仏像が、ほとんど焼失してしまったから、南都を根拠地にして、常日頃天平彫刻に親しんできた慶派払師は、まず天平復古を第一目標とした。第二目標としたのは、新しく成立した武家政権にふさわしい写実的で力強い作風で、平安時代後期の仏像に流行した繊細で優美な定朝様に代わる新様式であった。これを実現するため、これまで彫眼であった仏像の目に、水晶製の玉眼が嵌入され、また、宋様式の生々しい表現法が取り入れられた。

 舞鶴市松尾寺の阿弥陀像は第二目標を強調して制作された仏像である。同金剛院の両像とともに、快慶の無位時代の作品で、いずれも「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書銘があり、初期の溌刺たる力強さを持つ快慶の作風をあらわしている。

快慶作仏像の新発見

 如意寺の地蔵菩薩坐像は、火災にあったことがあり、その修理によって、表面が分厚い彩色で覆われてしまったため、膝裏内刳部に「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書があることが、以前から確認されていたにもかかわらず、快慶の作品と決定できずに過ごしてきた。昭和六十二年(一九八七)、この像の解体修理が実施され、三道内部と左目の玉眼押さえからも、新たな快慶の墨書が発見された。像容もこの修理によって当初の姿が明らかになり、快慶初期の力強くも生々しい姿があらわれることになった。

 この地蔵像に残る焼痕は、山淑大夫に捕らわれた安寿と厨子王の姉弟が、脱出しようとして見つかり、太夫から焼け火箸を当てられたのを、この地蔵が代って受けたのだという伝説を生んだ。寺伝では、何時の頃からか如意寺の本山である舞鶴市の金剛院に預けてあったのを、明治時代に取り戻したと伝えている。

 宮津市と舞鶴市に残る四躯の快慶造立像は、いずれも快慶の初期の無位時代の作品で、金剛院像は天平復古、如意寺像と松尾寺像は写実と力強さ、宋風の生々しさを顕著にあらわしている。これらの仏像を、快慶が現地に来て作ったのか、都で作ってこちらに持ってきたのか、という問題は、いずれも大きな仏像ではなく、内刳も発達していて軽いので、後者の方が可能性があるように思われる。玉眼入りの一木割矧像を作る場合、設備の整った都の仏所で作る方が、仏師にとっては都合がよかったであろう。

 制作地問題 ところが、同じ丹波でも、兵庫県氷上郡山南町の石嵓寺の金剛力士像二躯になると、両像ともに仁治三年(一二四二)に慶派の肥後別当定慶が造立した作品だが、像高が阿形で三六八・一センチ、吽形で三七一・二センチもある。これほど大きくなると、大仏師が小仏師を大勢引き連れて、現地に行かなければ、制作はできない。もっとも、寄木造だから、まず都でいったん完成し、彩色は未完のままで解体して、丹波へ運搬して組み立てたと考えた方がよいかもしれない。こうして現地に運んでも、組み立てにあたっての諸注意や修正、表面の彩色などは、大仏師が指揮をとってやらなければならない。このような大きな仏像ではなくても、寄木造像の場合は、解体して運び、現地で組み立てて彩色し、完成した方が、搬送中の損傷も少なく、安全だったであろう。解体運搬の場合は、当然、仏師が現地に赴いて、組立・彩色の仕上げをおこなったものと思われる。…

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