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2008年11月

2008年11月23日 (日)

金剛院(舞鶴市)の文化財-2-(塔婆)

金剛院の文化財-(金剛院塔婆)-

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金剛院の三重塔(金剛院塔婆)

この塔は舞鶴を代表する文化財である。こうした塔は丹後ではここにしかない。今は成相寺(宮津市)に五重塔があるが、あれは最近に再建されたものである。

pencil 金剛院の全般については「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照して下さい。

Knkin0054 この塔は重文だが、いつでも見ることができるなじみの文化財で、舞鶴市民なら知らぬ者はなかろうと思われる。近くなら学校の遠足や何やかやで一度くらいは行ったことがあることと思われる。ワリワリはどうもなじみがありすぎてこの塔のよさがわからない面もあるが、こうして見ればまたいい、というのかスゴイものと思える。

Momiji1本来文化財とは全人類の共有財産で、そうあるべきものと思うのだが、大切にしすぎるのか、隠してしまうというのか、見せるだけの施設もないというのか、市民からは見えないものになっているのである。

一度失えばもう取り返しのつかない物で、今のわれわれだけの物ではなく将来の地球市民に伝えねばならぬ宝ではある。そうした将来に対して責任がもてないようなことでも具合が悪いのであるが、そうした配慮に基づく慎重姿勢というよりも、どうも本当の人間文化というものが一般からは隔離・疎外状態になっているのだが、それでいて不条理と感じることもなく当然のことのようになっている、どう言うのかいかにも現代の非人間的社会のマトモとも思えぬ状況がここでも見えてしまうのである。そんな事はないと言うのなら、問おうではないか。舞鶴に伝わる重要文化財だといっても、それらをすべて実際に見たことのある一般の市民が一体何人いるのだろうか。まあ恐らく一人もいないと思われる。何もお寺さんや檀家さんを責めているのではないのだが、「舞鶴の文化財」を私のブログに訪ねてこられる方も多いのである。市民の興味は深いようなのだけれど、私に問われても私は門外漢だし、どこへ行けと言えばいいのだろう。

o(`ω´*)oプンスカプンスカ!! 文化にたずさわる政治や行政を問題に思うのである。その基本姿勢を問うのである。

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Momiji1文化庁の立てた案内には、

重要文化財

金剛院塔婆 木造こけら葺・室町時代

 金剛院は天長六年(八二九)ら平城天皇の皇子高丘親王(出家して真如法親王という)が創建したと伝える真言宗の古刹である。

 この塔は昭和二十五年解体修理され相輪を新補して完全復元されたもので屋根はこけら葺で比例の整った各層の屋根のリズムには軽やかさがある。

 初層の内部には太い四天柱が設けられ来迎壁には室町風の花頭窓がついているのが珍らしい。二、三層は三手先、二重繁棰の和様系の美しい塔婆で、軒の出が深いため、水平への広がりがあって、こころよい景観を呈している。 

文化庁

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もし死ぬと、こんな所へ行きそうな気持ちがしてくる。

『舞鶴の文化財』は、

 古刹金剛院の境内に清楚にたたずむ三重塔である。

 永保2年(1082)高岳親王(真如法親王)の菩提のため白河天皇が建立、久安2年(1146)美福門院によって平忠盛が奉行し本堂の建立とともに修飾したと伝える。

 現在の塔は、室町時代の再建とみられ、初層内部の須弥壇の格狭間の蓮唐草文様や、軒先の構法、斗キョウ積上げ方式等は、室町時代の特徴をよく示している。

 内部には四天柱が設けられ、来迎壁には火燈窓が付され、須弥壇には法親王の木像が安置される。扉が内開きなのは特例である。

 柿葺の屋根は軽やかで、各層とも比率よく整い、三手先の組物に支えられた二重繁垂木の軒の出の深さと水平への広がりに、和様の優美をみることができる。

 悲しくも美しい伝承に彩られるこの塔婆は、周囲の楓とともに、深い落ちつきをもって自然景観にとけこみ、王朝文化の雅びを今にただよわせている。

 相輪は、昭和24年の解体時に復元されたものである。

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2008年11月22日 (土)

金剛院(舞鶴市)の文化財-1-(快慶仏)

金剛院の文化財(快慶仏)

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金剛院には多くの文化財が伝わる。国指定のものでも9件もある。すべてを紹介もできないし、ド素人が勝手に写真を写したりはまったくできないので、すべて市の文献などからのコピーです。

pencil 金剛院そのものは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照のこと。

Kinb01 Momiji1_3  もっとも有名な、金剛院を代表する快慶作の

深沙大将立像

重文。寄木造・彩色。像高84㎝。鎌倉時代の快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 深沙大将は、唐の玄奘三蔵が天竺(インド)への旅の途中に感得したと伝えられる仏教の守護神で、きわめて怪異な姿をしている。

 左手には青蛇をつかみ(欠失)、右の胸横に掌を前にして構え、短い裳の上に獣皮をつけ、両脚を象のロから出している。

 この像には左足ホゾの内側に「巧匠?阿弥陀」の墨書銘があり、後述の執金剛神立像とともに快慶の初期の作であることがわかる。

 腹前の童子面がないほかは『別尊雑記』などの図像と同じように、儀軌に忠実な姿を執るとともに、湧き上がるような頭髪や、筋骨たくましい上躰をがっしりした腰が受ける堂々とした肉取り、激しい身のこなしながら均衡のとれた体勢など、鎌倉時代初期の時代相を反映して写実的な迫力に満ち、快慶の無位時代の造像姿勢が生き生きと表れている。

 快慶の忿怒形像の代表的名品であり、わが国の仏像彫刻の中でも稀にみる出色の異形像といえよう。

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Momiji1_4これも快慶作

執金剛神立像。

重文。寄木造・彩色。像高86㎝。鎌倉時代。快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 執金剛神は、金剛杵を持った護法神であるが、わが国で独尊で造られるときは、甲冑をつけた武装形の執金剛神、一対で造られるときは下半身に裳をつけた金剛力士の姿に表される。

 独尊としての作例は全国的にも少なく、東大寺三月堂にある奈良時代の塑像執金剛神を知るのみであり、金剛院像はその模像である。

 左足ほぞの内側には「巧匠?阿弥陀仏」の墨書銘があり、仏師快慶の作であることがわかり、前述の深沙大将像とともに、元来一具のものと考えられる。

 両像には、無位時代の快慶が天平古像や、密教図像を学んだあとがうかがえ、この像も東大寺の鎌倉復興期の大勧進であった俊乗房重源と深いつながりのあった快慶による復古的な制作であることがうかがえる。

 重源の数々の作善を記録した『南無阿弥陀仏作善集』の高野新別所の条には、この像と深沙大将の組合せが記されており、高野山と金剛院が美福門院の御願所であった関係から、両像が高野山か金剛院に移された可能性も強く、興味深い。

Kaikeib02 ←松尾寺の快慶仏「阿弥陀如来坐像」像高89.3㎝(重文)

Momiji1_4快慶自らが「巧匠アン阿弥陀仏」などと墨書した仏像は全国に20躰ばかりした伝わらないそうで、そのうちの4躰がこの金剛院に伝わっていた。2躯は今も金剛院に伝わる上のものであるが、もう1躯は近くの青葉山松尾寺の重文・阿弥陀如来坐像(アン阿の墨書銘がある)と、宮津市由良の如意寺の地蔵菩薩像(身替わり地蔵)(巧匠アン阿弥陀仏の墨書)である。(舞鶴から言えばこうなのであるが、宮津からはもともと如意寺のものであったが、金剛院に預けてあったのを取り戻したという)

舞鶴市民新聞98.1.1は、

…繊細な仏像を残した快慶にあって、こうした忿怒形像は珍しく、また仏教彫刻史をみても深沙大将立像は少なく異色の作品であることから、近年文化財関係者の間で評価が高まってきた。平成三年に英国ロンドンの大英博物館で開催された「鎌倉時代の仏像展」、昨年は米国ニューヨークでの「仏像彫刻展」に出品され、この時にはポスター写真にも使われた。

としていて、超個性的で、何とも現代的でもあり、当然にも海外でも人気が高いものである。

Kaikeib01 ←如意寺の快慶仏「地蔵菩薩座像」像高53.2㎝(府文化財)(安寿と厨子王伝説の金焼地蔵・身代地蔵。実際に焼け跡があるという)

Momiji1_4『宮津市史』は、高野山から持ってきたかもなどと根拠あいまいな話はしないのであるが、引かせてもらうと、

一 快慶作地蔵菩薩坐像と安阿弥様の流行

丹後の快慶作仏像

 宮津市の鎌倉時代の美術は、由良の如意寺の快慶作地蔵菩薩坐像に始まる。快慶は鎌倉時代の彫刻界に新風を巻き起こした慶派所属の仏師で、康慶を師とし、運慶とは兄弟弟子となる。治承四年(一一八○)平重衡のために焼討された東大寺の勧進聖となった俊乗房重源(一一二一~一二○六)の弟子となり、安阿弥陀仏の号を師からもらったので、快慶の制作した仏像の作風を安阿弥様といい、その作風は後世の仏像制作にも、大きな影響を及ぼした。

 丹後にはこれまで三躯の快慶の作品が確認されていた。舞鶴市金剛院の執金剛神立像と深沙大将立像、同市松尾寺の阿弥陀如来坐像である。執金剛神像と深沙大将像は、慶派仏師が目指していた天平彫刻への復古という方針のもとに制作された。治承四年の戦火で南都の東大寺と興福寺の天平時代の仏像が、ほとんど焼失してしまったから、南都を根拠地にして、常日頃天平彫刻に親しんできた慶派払師は、まず天平復古を第一目標とした。第二目標としたのは、新しく成立した武家政権にふさわしい写実的で力強い作風で、平安時代後期の仏像に流行した繊細で優美な定朝様に代わる新様式であった。これを実現するため、これまで彫眼であった仏像の目に、水晶製の玉眼が嵌入され、また、宋様式の生々しい表現法が取り入れられた。

 舞鶴市松尾寺の阿弥陀像は第二目標を強調して制作された仏像である。同金剛院の両像とともに、快慶の無位時代の作品で、いずれも「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書銘があり、初期の溌刺たる力強さを持つ快慶の作風をあらわしている。

快慶作仏像の新発見

 如意寺の地蔵菩薩坐像は、火災にあったことがあり、その修理によって、表面が分厚い彩色で覆われてしまったため、膝裏内刳部に「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書があることが、以前から確認されていたにもかかわらず、快慶の作品と決定できずに過ごしてきた。昭和六十二年(一九八七)、この像の解体修理が実施され、三道内部と左目の玉眼押さえからも、新たな快慶の墨書が発見された。像容もこの修理によって当初の姿が明らかになり、快慶初期の力強くも生々しい姿があらわれることになった。

 この地蔵像に残る焼痕は、山淑大夫に捕らわれた安寿と厨子王の姉弟が、脱出しようとして見つかり、太夫から焼け火箸を当てられたのを、この地蔵が代って受けたのだという伝説を生んだ。寺伝では、何時の頃からか如意寺の本山である舞鶴市の金剛院に預けてあったのを、明治時代に取り戻したと伝えている。

 宮津市と舞鶴市に残る四躯の快慶造立像は、いずれも快慶の初期の無位時代の作品で、金剛院像は天平復古、如意寺像と松尾寺像は写実と力強さ、宋風の生々しさを顕著にあらわしている。これらの仏像を、快慶が現地に来て作ったのか、都で作ってこちらに持ってきたのか、という問題は、いずれも大きな仏像ではなく、内刳も発達していて軽いので、後者の方が可能性があるように思われる。玉眼入りの一木割矧像を作る場合、設備の整った都の仏所で作る方が、仏師にとっては都合がよかったであろう。

 制作地問題 ところが、同じ丹波でも、兵庫県氷上郡山南町の石嵓寺の金剛力士像二躯になると、両像ともに仁治三年(一二四二)に慶派の肥後別当定慶が造立した作品だが、像高が阿形で三六八・一センチ、吽形で三七一・二センチもある。これほど大きくなると、大仏師が小仏師を大勢引き連れて、現地に行かなければ、制作はできない。もっとも、寄木造だから、まず都でいったん完成し、彩色は未完のままで解体して、丹波へ運搬して組み立てたと考えた方がよいかもしれない。こうして現地に運んでも、組み立てにあたっての諸注意や修正、表面の彩色などは、大仏師が指揮をとってやらなければならない。このような大きな仏像ではなくても、寄木造像の場合は、解体して運び、現地で組み立てて彩色し、完成した方が、搬送中の損傷も少なく、安全だったであろう。解体運搬の場合は、当然、仏師が現地に赴いて、組立・彩色の仕上げをおこなったものと思われる。…

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2008年11月18日 (火)

金剛院(舞鶴市)キャンドル・イルミネーション '08秋

moon1 紅葉の名所として知られる金剛院(舞鶴市鹿原・鹿原山慈恩寺)

ライトアップとキャンドル・イルミネーションの様子。

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pencil金剛院については詳しくは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照して下さい。

moon1 2008年は11月15日(土)と16日(日)に行われた。三重塔(重文・金剛院塔婆・室町時代)のライト・アップが行われる。

moon1 昼間の太陽光線で見るのとはまた違った趣がある。昼の顔と夜の顔は違う。幻想的と呼ぶのか悪趣味的と呼ぶのか、自然に反するような話で少しなら許されるというものかも知れない。Kinl01

moon1 どう見ても現代人の感覚では作れそうにもない手の込んだ建物であるが、周囲の自然景観とよく調和する。この世の物とも思えないすごさがある。

moon1 三重塔の前の公園広場(鹿原公園)に、綺麗にキャンドルが並べられ、灯りが点けられていく。雨が降っても風が吹いても消えないように出来ている。

moon1 キャンドルは創建の年(天長3年・西暦829年)に合わせて829個だそうである。

moon1 ライトアップに使われる投光器は消防署の物のようで、自家発電機を廻して電気を起こしているが、幾つか点灯していないものもある。

Kinl06 moon1 このあたりがベストアングルなのかカメラが並ぶ。もうびっしりといる。

moon1 月が出ないかと空をみるが、曇り空のうえ、絵くらいの月齢の月だから、出たとしてももっと遅くなるだろう。

Kinl02 moon1 私も皆のマネして写してみた。この位置から写せばこんなものになる。

moon1 (/ω\)ハズカシーィ 何か決まり切ったような構図で、超歿個性的、快慶に怒られそうで、私としては面白くもなく、たいした感動を覚えないないのであるが、とうとう写してしまったりしたのである。

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