2015年6月18日 (木)

アジサイまつり '15(舞鶴自然文化園)

アジサイはこの時期にはあちこちで見られる。しかしこれだけの種類と数が見られる所は多くはないと思われる。

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特に青系の色がよい。盛りあがるようタワワに咲いて、真ん中のいくつかの花は鞠ではなく、ハート型になっていた。花崗岩質の酸性土壌ために青くなるとのことだが、海の園だから、それがよいかも…

それよりも周辺が花崗岩質の土壌ということが、この青はあるいは多禰寺を産んだ歴史にも繋がるのかも知れない。

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それに比べると、赤や白系はモひとつの感じがある。同じ株であってもpH次第、肥料次第で、影響して桃色、フジ色、青色と変化するのだそう。青がよければ赤はダメということになろうか。

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園内は日本の木ばかりでなく、外来の木が植樹されている。左は赤松か、右はイタリアポプラだそう。

この日は、ツユどきには珍しく、青空で、太平洋高気圧でなく、大陸高気圧に覆われ、日本海から涼しい乾燥した風が吹き込んでいた。丹後の海岸集落でいう「アエの風」かと思われる、もう少し強いと間違いなくアエの風であろうか。気持ちのよい風である。

私が気に入ったのは、この風に吹かれるポプラの葉が葉と葉がこすれ合って発するサラサラサラサの音である。これは日本の木ではあまりないのではなかろうか。

子供の頃、近くにポプラの高い木があった、風に吹かれてサラサラと葉が音を立てていた、ある年、台風で倒れたが、私は50年ぶりにこの音を聴いた。

新名所なのか、こんな写真撮影も行われていた。03

ここのカエデ(日本種ではない)もサラサラと鳴っていた。

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2013年11月12日 (火)

「そばの花」:夢は帰らん、大満足でした

 いまさら紹介も不要なくらい、この地方の著名人も御用達の、よ~く知られたおゾハ屋さん。「そば・酒処 そばの花」。

ここのご店主は、私には古い30年も以前の「戦友」、キサマとオレとは同期の桜、しかし桜の時代はとおの昔に過ぎ去って、もうほぼ狂い咲きの「同期のそばの花」。

ある日のことですが、「来い」、と声かけられて、出かけてみた。

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 皆様にもぜひ足しげにお運び願いたいのですが、最初場所がわからないと思う。イッパツで来られたら動物以上に土地勘の効く人。明るい時でもわからない、夜だったらまず探し出せない。

 住所は一応は京都府綾部市上八田館ノ前1番地、お店の電話番号は0773-44-1191で、これをナビに打ち込んで、このあたりまでは来れる、その先の案内をすれば…

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 府道485(物部梅迫停車場線)を西側から見ている、↑虹の下に見えるのが舞鶴若狭自動車道で、国道27号の上杉の信号から入ると、そちら側から、そこの黒い車と同じ向きでここまでやってくることになる。お店は写真の一番左の藁葺トタンをかぶせた家である。

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 府道からわずかに入り込んだところで、道路から見えるが、看板も何もない、ホントに何もない、わかるわけない、来られるもんなら来てみんかい、探せるものなら探してみんかい、の世界。絶対に探せないので、そのつもりで来て下さい。
そこの赤いの自販機↑くらいが目印になる、自販機くらいはほかにもいくらでもあるので、この自販機を注意して見落とさないように、奥に車がたくさんあるところが、お店の駐車場です。

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これが「そばの花」の正面入口↑。普通の昔の農家である。↓ここからお入り下さい。

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燃えろよペチカ木のストーブと友たちが迎えてくれます。

友と語らん。何を語るべきや。
まあそうする前には、まず飲んで喰って、腹ごしらえが先じゃぁ。
こだわりの料理が一杯出てくる、少し写せば…

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 舞鶴の魚↑ここは素材にこだわりぬく、ウソはない、エエカゲンはない、メニューと違うこともない、偽装表示の「おもてなし」はない、本物の口には出さない、おもてなしがある。

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当店おすすめの「そばすき鍋かも仕立」↑。
うまそうだわい、こんなゴッツォは何十年ぶりか、そんな目が見つめる。

皆様もぜひ味わって下され。

お店の雰囲気

 店主の親戚の家だったという農家造りで、中にはいると新しい住宅と違ってほの暗い、ガラス戸がふんだんにあるにもかかわらず、カメラの目には特にそう感じられる、写真よりは人間の目にはもっと明るい。

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田の字の農家の間取りでタタミの間にテーブルが数卓ある。座っていただくのが基本。家族ずれでも友達とでも、会社の忘年会などでも、40名くらいは入れるよう。

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月~金 11:00~15:00 夜は予約のみ。
土・日・祝祭日は11:00~20:00
毎週火曜日と第2・3水曜日は定休日

そばは北海道・幌知内産。お品書きは写し忘れたが結構あれこれ揃っております。
料金は大変に良心的、暴利をむさぼる気などはさらさらなく、そんなに安くてやってけるの、の金額であります。

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あまり写せば企業秘密にふれるか、
彼の息子さんも帳場に立っておられる。

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友と語らん。通いなれたる、まなびやのまち。

バカ者はまた、歩きはじめる、
とか歌っていたが、ゴソゴソと何やら引き出してきて、

ほら、これな、おまえが書いたレポート。オレまだ持ってるよ、と、

そんな古い物をまだ持っていたのか。

あの右さがりの苦しい時代に一万二千人も集めたために、「舞鶴の奇跡」と呼ばれた取組だったが、舞鶴ばかりでなく、青年団だけでなく、もっと広く大きな衝撃を与えていたようである。彼は船井郡日吉町の名望家出身の人だが、いまだに読み返してくれていたとは、よき友とはこうした人。舞鶴人でもそうした人はない(のではなかろうか)R01

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わざわざこれを持って来てくれたのか グス 

あのときは一万二千人も集まってくれた、でも今はそれを百倍する人が集まるサイトを書いているよ。

というのだが、信じられない様子である。
「戦争展」は今ではずいぶんと全国で開かれるようになっているが、その出発になったころは、超難関のハードルだらけで、全体見通しもたてられず成功率ゼロに近かった、こうした場合は若者の力しか頼れるものはない、府青年団も強力応援してくれた、そのときの団長が彼だが、思い出したが、事務局にいたのが今前に座っている、女子団員様であった、久美浜の子で、当時府全団のあこがれのマトだった。
その資料は事務局にあるか、あればもらいに行く、用意してくれ、とエッチラコッチラと京都市内の事務所まで行くと、彼女が集めてくれた大束の資料がくくられて用意されていた。
わっおもたい、というほどあった、あのときは助かったよ、これで半分成功と思った、あのときそうしてくれたんです、覚えてる?30年も昔の話だけど、と問えば、さぁー、ということであった。

こんな話、破られることのないと言われた最長レポートに書いただろうか、覚えないが、もしなければ、これが30年後の後日談。

 やさしの小鈴、葉陰に寄れば、夢は帰らん、…

こうした話は書き出せばキリがないほどにあるが、かつての戦士たちもそうした見果てぬ夢に酔いしれて、ぼつぼつ酔いどれ。
近くの「イワンの里」にて二次会。

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ココロは「イワンの馬鹿の里」ということだそう。馬鹿を入れるとお客様に失礼かと、看板には入っていない。
 Иван(イワン)は聖ヨハネのこと、英語ではジョン(ジョニー・ジャック)、ヨハンとかジャンとか言語によって呼び方はちがう。生まれた日によって予め名前は幾つかに決まっていて、日本のように何でもよいというのではない。
長兄は軍人で悪魔に剣にてやられてしまう、過去の大日本低国、与党政府が自衛権とか必死になってとりもどすといっている一番アホなタイプ、二男は今の経済大国日本みたいなもので、ゼニしか頭にない、目先のゼニしか知らない、これまた悪魔にはめられてやられてしまうという二番目アホタイプ。弟のイワンはまったく別で馬鹿正直で手にタコない者は食うべかずのタイプ、ここの店主のような人で、悪魔も手が出せず最終的にはここだけが栄えたという。額に汗して働かずに、軍事力で富を独占しよとしたり、朝から晩まで働きもせんでカネでカネを儲けて富をゴーホー的にかすめ取ろうとか、そういうことをしていれば遠からず滅びますよとトルストイは教えていた。
悪魔の甘いささやきにそそのかされずにやっぱりド誠実なバカで行こうかのかなり哲学的文学的店名のよう。

あの頃もそうだったが、相変わらずよく飲みますのぉ…
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 こうしたときよく思い出す曲 「遠い道」

 ДОРОГОЙ  ДЛИННОЮ

時はアッ!という間に過ぎゆきて、お互いそれぞれ長い道を歩いた、
お互い老けてしまった、アポロンの髪も白く薄くなり、ひどい顔になった。
あの頃と酒飲む姿は変わらんな、
あいも変わらず「Иванのバカ」のままだ、
中味のキラキラ心はかわらんな。

というような意味か。

メリー・ホプキンの英語版の方がなじみあるかも、
そんな日々があった、ちょうど当時の歌であった。
こちらは今聞き直しても苦しくなるが…

以上↑は当時の府連合青年団OBたちが、久しぶりで酒でもと集まったもの。正規の呼びかけで集まったものではありませんが、ついでながら下↓はそれに先だって開かれた、舞鶴市連合青年団OBたちの集会の様子。判明したすべて当時の団員たちに呼びかけられた。さいわい長い歴史の中でも不祥事があったとはいまだに何も聞かない、事務所のカネが「外部の者に盗まれた」とかの小さいのはあるだろうがわすがな金額であるし、全体とすればよい団だったよう。

府のクラスになるとこれが多すぎてできないのである。

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2012年6月29日 (金)

アジサイが一杯(於:舞鶴自然文化園)

 アジサイが美しい、ふだんから草花などに趣味薄い人間で、花を見て背を向けて座ったりはしないけれども、まあまあ、ひと様に花をおすすめするも恥ずかし気もするが、ここはよろしい、と思った。アジサイくらいどこにもあろうけれども、ここもまたよろしい。

舞鶴自然文化園は大浦半島の三浜峠の頂上付近にあって、ツバキ園とか、そのほかいろいろと草木が広大な山の斜面に植えられている。
もともとは関東の西武鉄道が所有していた農園がここにあったのだが、撤退したため、そのあとを市が引き継いだものであるという。大浦半島は観光地として将来性があると踏んだか、都会人向けのリゾートマンションなど日本海の見える側に建てたかったのかも知れない。ユメ破れてこんなものが残った。それともこんなトコは、と見捨てて同じやるなら中国だと中国やアジアにユメを追い進出するのかも。しかし美しくする気があれば、美しくなるものなのだ。そうした気がないからせっかくの自然も死んでしまう。兵庫県ナンバーのバスが着いた。
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↑ここが入口。峠道の道ぶちだからすぐわかる。
↓中はけっこう広くて、斜面もきつい、歩きなれない人はちときつところがあるかも…
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しかし惜しいことにサクラがにゃいわい、サクラを植えろ、市民が来る、今はたいして来ていそうにもないが、舞鶴はサクラだ。

 園内のアジサイの様子。アジサイといえばツユの季節のものだが、この日は夏のようなガンガン照りの日だった。
アジサイといってもいろいろあって、ここには60種類5万本が咲いているそう。
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↓動画

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2011年3月27日 (日)

演劇-小学生の劇(六年生を送る会)2011.2.27

 小学生の劇。息子の小学卒業も間近になるころ、「六年生を送る会」が開かれたので、カメラ抱えて出かけてみた。 みながんばってました。

 当ページは学校や教育委員会などどことも関係が御座いません。責任はいっさい私個人にあります。記載内容などもし不都合御座いましたら、→kiichisaitoh@hotmail.com 

 「さくら山に花がさく」(三年生の劇)

 「ないた赤おに」(二年生の劇)

 「そうべえ ごくらくへゆく」(一年生の劇)

 「なかよしベル」(こぶし学級)

 「リサイクルランド」(四年生の劇)

 「蛇切岩伝説」(五年生の劇)

 「未来冒険記-夢と希望を探す旅-」(六年生の劇)

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2010年3月 1日 (月)

ありしその日:-六年生を送る会-

  文読む月日重ねつつ、明けてぞ今朝は別れ行く。

 卒業式(卒業証書授与式)に先立って催された

六年生を送る会」の様子(2010.2.28)。

 丹後の地名・アルバム25「ありしその日」に同じ催しの情報があります。

 せっかくの一生懸命の「送る会」です、おジイちゃんおバアちゃんはじめ、全世界のより多くの人達に見てもらうのも、あるいは皆さんがあと何年かして、あるいはあと何十年かして、もう一度見てみるのもよいかもしれません。

 これくらいなら、そう高度な専門知識が必要なわけでもありません、機材と時間さえあれば誰でもできます。六年生なら十分できます(五年生でも可能)。ちょっとした助言さえあればできることで、将来は児童たち自身で  写真班やビデオ班、編集アップロード班をつくり、自分たちの手でやってみて下さい。何か最先端技術を駆使できる能力が身につけばもはやイナカの学校ではなくなります。すべてがやがて良い方向へ変わってくることでしょう。象牙の塔に籠もるのでなく、全世界に開かれた学校を。全世界へ情報発信できる学校を! 全世界と繋がってないようでは本当の学校とは言えないと考えるけれども、それでこそ与保呂校の教育目標 「世界に目を向けたたくましく生きる子」 が育つかも…

 尚、当ページは学校や教育委員会などどことも関係が御座いません。責任はいっさい私個人にあります。記載内容などもし不都合御座いましたら、→ ここへ連絡下さい。 

 プログラム1 六年生入場

 プログラム2 はじめの言葉

 プログラム3 あいさつ

 プログラム4 全校合唱 「君とぼくのラララ」

 プログラム5

 歌しばい「三年とうげ」。演じているのは三年生たち。

 プログラム6

 劇「ねずみのすもう」。演じているのは一年生たち。カワイイ演技に見とれていて、うっかりと最後が切れてしまいました。

 プログラム7

 劇「一本の橋」 二年生です。

 プログラム8

 クラブ発表 「マジック

Paul Mouriat 楽団の 「オリーブの首飾り」 にのって、まさか自分の息子が出てこようとは夢にも思ってもいなかったのですが、さてさてどんなもんでしょうか。

 プログラム9 休憩

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 演奏「心を一つに」。五年生です。合唱「風になりたい」、合奏「言葉にならない」。

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 劇「宝はどこだ」。四年生です。

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 劇「Poeple of the world」。六年生。

 プログラム13 プレゼント渡し

 プログラム14 終わりの言葉

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みんなとても上手。とてもよくできました。みんなも私も予想した以上のデキで、カッコよかった!、うれしい! 練習成果を発揮してパーフェクト、すごい! だったようです。みんなドキドキの緊張の様子で笑顔がなく表情が硬かったかな、もう猛練習しかありませんね、さらに名スターを目指して、さらなる工夫と努力と練習を積まれると、さらにさらによくなるものと思います。

上達には過去の「六年生を送る会」の演技の記録を残してやることが大切かも知れませんし、先生は忙しいので、芝居好きなどはけっこういるので、そんなボランティアなどもいるかも。

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2010年2月 1日 (月)

美女たちと行くイタリア料理店  OSTELA  "La Bonta" (ラ・ポンタ舞鶴店)

 不況続きでゼニはなく、なじみのお店などとっくの昔に潰れてなく、一緒に行ってくれる相手もなく、体力も元気もなく、わたくし事ですが、滅入るようなアップアップ生活が続いておりましたのでございます…

 夢でなかろかの大変にめずらしいこと、一万年に一度くらいの間氷期のように、今宵ばかりは美女たちとご一緒させていただけました。

身も心も、ブ厚くはりついた氷がバリバリ音たてて砕けていく、割れていく、裂けていく、散っていく、とけていく、消えていく…。も、もしかしたら、氷の地獄から脱出できるかも…

 わっ! うれし!! の La Bonta」店。

イタリア語わかりませんが、「ラ・ポンタ」と読むのだそうです。意味は知りません。イタリア料理専門店。チェーン店なのかも。

店内はこの広さ、あとはカウンターに数名座れる

 料理もさっぱりと知識がなく、せっかくの料理は胸一杯、腹一杯でノドを通らず、味はわからず、全部はとても食べられず、ヘタクソ写真だけ写しておくのが精一杯でございました。

 写真の美女たち  知ってる? も、もしかして知ってるかも知れませんが、誰とも書きません。もっと美女たちの写真を見せてみろ、いやいやこれ以上はムリです。隠してからにアヤシイ、ベ別に何かそんなわけではございません。

 実はこんなおカタ~イお集まり  でございますが、それも書きません。皆様が知りたい問題は、このお店の料理でございますから、関係のない事は書かないでおきます。一応は…

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 La Bonta店(ラ・ポンタ)は東舞鶴・浜の五条朝日の少し北寄り、五条通りにこんな  看板があり、すぐわかります。東舞鶴駅の浜側で、駅からなら徒歩で行けます。舞鶴散策のあいまに立ち寄られてみてはいかがでしょうか。

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 ラ・ボンタに駐車場があるのかどうか聞き忘れてしまいましたが、近くには公共駐車場は多くそこへ駐められるといいのでは…。

 『タウン・ページ』には、イタリア料理店 「オステリア ラ・ボンタ」0773-64-1001 (  773)とあります。

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  腕にヨリかけるから、しっかり食べてよ。

この日はワレワレだけの貸し切り。

そんなことで、

 ラ・ポンタのイタリア料理

   名メニュー集

 まずは、コレ。名は知らず。

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 次がコレ、名を知らず。野菜サラダか、ホントは何かもっとカッコいい名があるはず…。ああ恥ずかしい

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 イタリア料理はワインだって、赤ワイン。

 どんどんヤってよ。

やめてヨ。そんな飲めるワケないでしょ。

それでも、この宵は一人一本くらい空けた勘定になるそうでした。

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 拍手! グイグイ・ガブガブとワインあけるは彼女だけ。ちなみに、ご職業はスーパー教師、小学校を背負う現場第一線のスーパー・エース。

ホントですよ、スーパー・マーケットじゃありませんよ。しかし、よ余裕ですね、も、もしかすると、とても強いのかも。静かなること林の如し、1ミリの狂いもない作品展示を見せる「震える教室」の主・この人ご自身が激しい炎、オーラーで全身を包んでるかんじ。ますます将来嘱望の逸材。

 次はコレ。名を知らず。

接写レンズ持っていけばよかったが、カメラとセットするととても重く大きいのでやめた、ために写りはも一つ。ストロボたくとケラれた。ああ情けない。

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   校長先生が写された三枚の写真。超うまく写っております。

男性はこれでほぼ全メンバーなんですが…

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 次はコレ、ピザ。これくらいはワタチもわかる。ああ恥ずかしい

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 どんどん出てきます。セイヨウお好み焼きか、お子様のようにみんな大好き。

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 さて、コレも名も知らず。お米料理でした。ペロリ。

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 次が、イタそば。イタうどんかな。パスタ。

 西洋ソバも結構、し、しかし美女のそばはも、もっとよろしいな。

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 はいはいアアンして。

皆様どうぞ、お召し上がりあれ。

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 コレ、名も知らず。

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 コレも名も知らず。

敢えてワタチ風に名をつければ「イタリア風イチゴ添えケーキ、チョコかけ」。ああ恥ずかしい。

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 温暖化は自然界。逆に寒冷化は人間界。みんな凍り付いております。

 今日の仕事がないのにそれどころかと忘年会新年会なく、飲み屋さんはこの稼ぎ時ですら、まったくお客がない。飲食店はすべて悪いのだが、その中でも特に「飲」が悪いと言われる。ママさんは「お客なんかあるわけないでしょ。毎日ボーズ。仕方ないから私が一人飲んでるの。そこへ座ってよ」。そんなんなん。「このごろずっとドヒマに慣れきっちゃって、珍しくお客があったりしても、もうからだは動かない、何していいのかわからない、からだも頭もドヒマに慣れたんでしょ、ムリして動かすとグラス割っちゃったりとかするの」。ボチボチ繁昌していたと思えるようなお店でも「今日限りで閉店です。長年お世話になりました。大変ありがとうございました」。東郷元帥も愛した近くの老舗伝説の名物旅館すら倒産のご時世。

 不況くらいに負けとったらあきませんですゾ、そこへいくとこの会はよろしいです、決して負けとりません。サイフカラッポでも元気、血気盛ん、燃えとります。元気すぎかも、ああコワイ。

 

 

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2008年11月23日 (日)

金剛院(舞鶴市)の文化財-2-(塔婆)

金剛院の文化財-(金剛院塔婆)-

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金剛院の三重塔(金剛院塔婆)

この塔は舞鶴を代表する文化財である。こうした塔は丹後ではここにしかない。今は成相寺(宮津市)に五重塔があるが、あれは最近に再建されたものである。

 金剛院の全般については「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照して下さい。

Knkin0054 この塔は重文だが、いつでも見ることができるなじみの文化財で、舞鶴市民なら知らぬ者はなかろうと思われる。近くなら学校の遠足や何やかやで一度くらいは行ったことがあることと思われる。ワリワリはどうもなじみがありすぎてこの塔のよさがわからない面もあるが、こうして見ればまたいい、というのかスゴイものと思える。

Momiji1本来文化財とは全人類の共有財産で、そうあるべきものと思うのだが、大切にしすぎるのか、隠してしまうというのか、見せるだけの施設もないというのか、市民からは見えないものになっているのである。

一度失えばもう取り返しのつかない物で、今のわれわれだけの物ではなく将来の地球市民に伝えねばならぬ宝ではある。そうした将来に対して責任がもてないようなことでも具合が悪いのであるが、そうした配慮に基づく慎重姿勢というよりも、どうも本当の人間文化というものが一般からは隔離・疎外状態になっているのだが、それでいて不条理と感じることもなく当然のことのようになっている、どう言うのかいかにも現代の非人間的社会のマトモとも思えぬ状況がここでも見えてしまうのである。そんな事はないと言うのなら、問おうではないか。舞鶴に伝わる重要文化財だといっても、それらをすべて実際に見たことのある一般の市民が一体何人いるのだろうか。まあ恐らく一人もいないと思われる。何もお寺さんや檀家さんを責めているのではないのだが、「舞鶴の文化財」を私のブログに訪ねてこられる方も多いのである。市民の興味は深いようなのだけれど、私に問われても私は門外漢だし、どこへ行けと言えばいいのだろう。

o(`ω´*)oプンスカプンスカ!! 文化にたずさわる政治や行政を問題に思うのである。その基本姿勢を問うのである。

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Momiji1文化庁の立てた案内には、

重要文化財

金剛院塔婆 木造こけら葺・室町時代

 金剛院は天長六年(八二九)ら平城天皇の皇子高丘親王(出家して真如法親王という)が創建したと伝える真言宗の古刹である。

 この塔は昭和二十五年解体修理され相輪を新補して完全復元されたもので屋根はこけら葺で比例の整った各層の屋根のリズムには軽やかさがある。

 初層の内部には太い四天柱が設けられ来迎壁には室町風の花頭窓がついているのが珍らしい。二、三層は三手先、二重繁棰の和様系の美しい塔婆で、軒の出が深いため、水平への広がりがあって、こころよい景観を呈している。 

文化庁

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もし死ぬと、こんな所へ行きそうな気持ちがしてくる。

『舞鶴の文化財』は、

 古刹金剛院の境内に清楚にたたずむ三重塔である。

 永保2年(1082)高岳親王(真如法親王)の菩提のため白河天皇が建立、久安2年(1146)美福門院によって平忠盛が奉行し本堂の建立とともに修飾したと伝える。

 現在の塔は、室町時代の再建とみられ、初層内部の須弥壇の格狭間の蓮唐草文様や、軒先の構法、斗キョウ積上げ方式等は、室町時代の特徴をよく示している。

 内部には四天柱が設けられ、来迎壁には火燈窓が付され、須弥壇には法親王の木像が安置される。扉が内開きなのは特例である。

 柿葺の屋根は軽やかで、各層とも比率よく整い、三手先の組物に支えられた二重繁垂木の軒の出の深さと水平への広がりに、和様の優美をみることができる。

 悲しくも美しい伝承に彩られるこの塔婆は、周囲の楓とともに、深い落ちつきをもって自然景観にとけこみ、王朝文化の雅びを今にただよわせている。

 相輪は、昭和24年の解体時に復元されたものである。

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2008年11月22日 (土)

金剛院(舞鶴市)の文化財-1-(快慶仏)

金剛院の文化財(快慶仏)

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金剛院には多くの文化財が伝わる。国指定のものでも9件もある。すべてを紹介もできないし、ド素人が勝手に写真を写したりはまったくできないので、すべて市の文献などからのコピーです。

 金剛院そのものは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照のこと。

Kinb01 Momiji1_3  もっとも有名な、金剛院を代表する快慶作の

深沙大将立像

重文。寄木造・彩色。像高84㎝。鎌倉時代の快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 深沙大将は、唐の玄奘三蔵が天竺(インド)への旅の途中に感得したと伝えられる仏教の守護神で、きわめて怪異な姿をしている。

 左手には青蛇をつかみ(欠失)、右の胸横に掌を前にして構え、短い裳の上に獣皮をつけ、両脚を象のロから出している。

 この像には左足ホゾの内側に「巧匠?阿弥陀」の墨書銘があり、後述の執金剛神立像とともに快慶の初期の作であることがわかる。

 腹前の童子面がないほかは『別尊雑記』などの図像と同じように、儀軌に忠実な姿を執るとともに、湧き上がるような頭髪や、筋骨たくましい上躰をがっしりした腰が受ける堂々とした肉取り、激しい身のこなしながら均衡のとれた体勢など、鎌倉時代初期の時代相を反映して写実的な迫力に満ち、快慶の無位時代の造像姿勢が生き生きと表れている。

 快慶の忿怒形像の代表的名品であり、わが国の仏像彫刻の中でも稀にみる出色の異形像といえよう。

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Momiji1_4これも快慶作

執金剛神立像。

重文。寄木造・彩色。像高86㎝。鎌倉時代。快慶作。

『舞鶴の文化財』は、

 執金剛神は、金剛杵を持った護法神であるが、わが国で独尊で造られるときは、甲冑をつけた武装形の執金剛神、一対で造られるときは下半身に裳をつけた金剛力士の姿に表される。

 独尊としての作例は全国的にも少なく、東大寺三月堂にある奈良時代の塑像執金剛神を知るのみであり、金剛院像はその模像である。

 左足ほぞの内側には「巧匠?阿弥陀仏」の墨書銘があり、仏師快慶の作であることがわかり、前述の深沙大将像とともに、元来一具のものと考えられる。

 両像には、無位時代の快慶が天平古像や、密教図像を学んだあとがうかがえ、この像も東大寺の鎌倉復興期の大勧進であった俊乗房重源と深いつながりのあった快慶による復古的な制作であることがうかがえる。

 重源の数々の作善を記録した『南無阿弥陀仏作善集』の高野新別所の条には、この像と深沙大将の組合せが記されており、高野山と金剛院が美福門院の御願所であった関係から、両像が高野山か金剛院に移された可能性も強く、興味深い。

Kaikeib02 ←松尾寺の快慶仏「阿弥陀如来坐像」像高89.3㎝(重文)

Momiji1_4快慶自らが「巧匠アン阿弥陀仏」などと墨書した仏像は全国に20躰ばかりした伝わらないそうで、そのうちの4躰がこの金剛院に伝わっていた。2躯は今も金剛院に伝わる上のものであるが、もう1躯は近くの青葉山松尾寺の重文・阿弥陀如来坐像(アン阿の墨書銘がある)と、宮津市由良の如意寺の地蔵菩薩像(身替わり地蔵)(巧匠アン阿弥陀仏の墨書)である。(舞鶴から言えばこうなのであるが、宮津からはもともと如意寺のものであったが、金剛院に預けてあったのを取り戻したという)

舞鶴市民新聞98.1.1は、

…繊細な仏像を残した快慶にあって、こうした忿怒形像は珍しく、また仏教彫刻史をみても深沙大将立像は少なく異色の作品であることから、近年文化財関係者の間で評価が高まってきた。平成三年に英国ロンドンの大英博物館で開催された「鎌倉時代の仏像展」、昨年は米国ニューヨークでの「仏像彫刻展」に出品され、この時にはポスター写真にも使われた。

としていて、超個性的で、何とも現代的でもあり、当然にも海外でも人気が高いものである。

Kaikeib01 ←如意寺の快慶仏「地蔵菩薩座像」像高53.2㎝(府文化財)(安寿と厨子王伝説の金焼地蔵・身代地蔵。実際に焼け跡があるという)

Momiji1_4『宮津市史』は、高野山から持ってきたかもなどと根拠あいまいな話はしないのであるが、引かせてもらうと、

一 快慶作地蔵菩薩坐像と安阿弥様の流行

丹後の快慶作仏像

 宮津市の鎌倉時代の美術は、由良の如意寺の快慶作地蔵菩薩坐像に始まる。快慶は鎌倉時代の彫刻界に新風を巻き起こした慶派所属の仏師で、康慶を師とし、運慶とは兄弟弟子となる。治承四年(一一八○)平重衡のために焼討された東大寺の勧進聖となった俊乗房重源(一一二一~一二○六)の弟子となり、安阿弥陀仏の号を師からもらったので、快慶の制作した仏像の作風を安阿弥様といい、その作風は後世の仏像制作にも、大きな影響を及ぼした。

 丹後にはこれまで三躯の快慶の作品が確認されていた。舞鶴市金剛院の執金剛神立像と深沙大将立像、同市松尾寺の阿弥陀如来坐像である。執金剛神像と深沙大将像は、慶派仏師が目指していた天平彫刻への復古という方針のもとに制作された。治承四年の戦火で南都の東大寺と興福寺の天平時代の仏像が、ほとんど焼失してしまったから、南都を根拠地にして、常日頃天平彫刻に親しんできた慶派払師は、まず天平復古を第一目標とした。第二目標としたのは、新しく成立した武家政権にふさわしい写実的で力強い作風で、平安時代後期の仏像に流行した繊細で優美な定朝様に代わる新様式であった。これを実現するため、これまで彫眼であった仏像の目に、水晶製の玉眼が嵌入され、また、宋様式の生々しい表現法が取り入れられた。

 舞鶴市松尾寺の阿弥陀像は第二目標を強調して制作された仏像である。同金剛院の両像とともに、快慶の無位時代の作品で、いずれも「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書銘があり、初期の溌刺たる力強さを持つ快慶の作風をあらわしている。

快慶作仏像の新発見

 如意寺の地蔵菩薩坐像は、火災にあったことがあり、その修理によって、表面が分厚い彩色で覆われてしまったため、膝裏内刳部に「巧匠アン阿弥陀仏」の墨書があることが、以前から確認されていたにもかかわらず、快慶の作品と決定できずに過ごしてきた。昭和六十二年(一九八七)、この像の解体修理が実施され、三道内部と左目の玉眼押さえからも、新たな快慶の墨書が発見された。像容もこの修理によって当初の姿が明らかになり、快慶初期の力強くも生々しい姿があらわれることになった。

 この地蔵像に残る焼痕は、山淑大夫に捕らわれた安寿と厨子王の姉弟が、脱出しようとして見つかり、太夫から焼け火箸を当てられたのを、この地蔵が代って受けたのだという伝説を生んだ。寺伝では、何時の頃からか如意寺の本山である舞鶴市の金剛院に預けてあったのを、明治時代に取り戻したと伝えている。

 宮津市と舞鶴市に残る四躯の快慶造立像は、いずれも快慶の初期の無位時代の作品で、金剛院像は天平復古、如意寺像と松尾寺像は写実と力強さ、宋風の生々しさを顕著にあらわしている。これらの仏像を、快慶が現地に来て作ったのか、都で作ってこちらに持ってきたのか、という問題は、いずれも大きな仏像ではなく、内刳も発達していて軽いので、後者の方が可能性があるように思われる。玉眼入りの一木割矧像を作る場合、設備の整った都の仏所で作る方が、仏師にとっては都合がよかったであろう。

 制作地問題 ところが、同じ丹波でも、兵庫県氷上郡山南町の石嵓寺の金剛力士像二躯になると、両像ともに仁治三年(一二四二)に慶派の肥後別当定慶が造立した作品だが、像高が阿形で三六八・一センチ、吽形で三七一・二センチもある。これほど大きくなると、大仏師が小仏師を大勢引き連れて、現地に行かなければ、制作はできない。もっとも、寄木造だから、まず都でいったん完成し、彩色は未完のままで解体して、丹波へ運搬して組み立てたと考えた方がよいかもしれない。こうして現地に運んでも、組み立てにあたっての諸注意や修正、表面の彩色などは、大仏師が指揮をとってやらなければならない。このような大きな仏像ではなくても、寄木造像の場合は、解体して運び、現地で組み立てて彩色し、完成した方が、搬送中の損傷も少なく、安全だったであろう。解体運搬の場合は、当然、仏師が現地に赴いて、組立・彩色の仕上げをおこなったものと思われる。…

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2008年11月18日 (火)

金剛院(舞鶴市)キャンドル・イルミネーション '08秋

 紅葉の名所として知られる金剛院(舞鶴市鹿原・鹿原山慈恩寺)

ライトアップとキャンドル・イルミネーションの様子。

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金剛院については詳しくは「金剛院(舞鶴市鹿原)」など参照して下さい。

 2008年は11月15日(土)と16日(日)に行われた。三重塔(重文・金剛院塔婆・室町時代)のライト・アップが行われる。

 昼間の太陽光線で見るのとはまた違った趣がある。昼の顔と夜の顔は違う。幻想的と呼ぶのか悪趣味的と呼ぶのか、自然に反するような話で少しなら許されるというものかも知れない。Kinl01

 どう見ても現代人の感覚では作れそうにもない手の込んだ建物であるが、周囲の自然景観とよく調和する。この世の物とも思えないすごさがある。

 三重塔の前の公園広場(鹿原公園)に、綺麗にキャンドルが並べられ、灯りが点けられていく。雨が降っても風が吹いても消えないように出来ている。

 キャンドルは創建の年(天長3年・西暦829年)に合わせて829個だそうである。

 ライトアップに使われる投光器は消防署の物のようで、自家発電機を廻して電気を起こしているが、幾つか点灯していないものもある。

Kinl06  このあたりがベストアングルなのかカメラが並ぶ。もうびっしりといる。

 月が出ないかと空をみるが、曇り空のうえ、絵くらいの月齢の月だから、出たとしてももっと遅くなるだろう。

Kinl02  私も皆のマネして写してみた。この位置から写せばこんなものになる。

 (/ω\)ハズカシーィ 何か決まり切ったような構図で、超歿個性的、快慶に怒られそうで、私としては面白くもなく、たいした感動を覚えないないのであるが、とうとう写してしまったりしたのである。

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2008年5月26日 (月)

朝妻祭(京都府与謝郡伊根町新井崎神社、他)

徐福を祀る新井崎神社(京都府与謝郡伊根町新井)などでは「朝妻祭」が催された。08年は4月20日(日曜日)であった。

これはその動画の記録(坂根正喜氏撮影)。(部分)

新井崎神社だけでなく、この周辺の各地が催される。

新井の西側、蝙蝠山の麓の三柱神社のナワテ振り。

同社での大刀振り。

同社での花踊り。

新井崎神社での花踊り。

新井崎港恵比須神社での大刀振り奉納。

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